夏のさえずり

 


「ご主人〜〜っ」
 半泣きの悲鳴を聞いたのは、哮天犬を洗っている時だった。
「不死象! 何かあったのかい?」
 水桶を置いて、前髪を掻き揚げる。
 汗と水とで、べっしょりと湿っていた。
「朝から見当たらないんスよ、ご主人」
「へぇ。最後に見たのは?」
「昨日の夜っス」
 暑い日なので、普段の胴着から袖を取り払ったものを着ている。髪も一つに束ねた。
 腕には、水気を含んだ哮天犬の癖毛が幾筋か貼り付いていた。哮天犬の手入れと水浴びを兼ねて、水場に来てから二時間は経っただろう。強い日差しの中を進む不死象を見つめながら、彼が口を開く前に結論を述べた。
「僕は見ていないけれど」
「そうっスか……」
 傍らの哮天犬にタオルをかぶせ、全身をくまなく、まさぐるようにして水分をふき取る。
 くすぐったそうに、鼻がぶるるっと小気味良い音をたてた。不死象は、しばらく僕と哮天犬を見つめていた。白い毛並みにブラシをかけるも、背中に物言いたげな視線を感じて心底から楽しめない。
 浅いため息が、口をついた。
「わかったよ。これが終わったら、僕も探すのを手伝おう」
「ありがたいっス! 天才の楊ゼンさんが手伝ってくれたらご主人なんて一瞬っスよ!」
「君ねえ。天才の使い方が間違ってないかな?」
 苦笑を浮かべながら振り向くと、嬉しそうに飛び跳ねる不死象が見えた。
 無邪気な反応をされては、小言をいう気もなくなってしまう。
 不死象の視線は、ブラッシングに移った僕の手元にあるみたいだ。
「こういうことを、師叔はやってくれたりするかい?」
「あの人のぐうたらぶりを見るっスよ。絶対にやりそうもないっスよ」
「なるほど」
 からから笑っていると、不死象は気だるげな吐息を零した。
「本当、少しは楊ゼンさんを見習って欲しいっスよ。哮天犬さん、気持ち良さそうっス」
 不死象の言葉に、哮天犬が首をもたげさせた。鼻を鳴らし、何かを訴えるように尻尾を左右に揺らしている。ブラシ掛けはほとんど終わっていたけれど、僕は、不死象にブラシと笑顔を向けた。
「……やってみるかい?」
「えっ」驚いて、僕と哮天犬を見比べる。哮天犬は、たぶん、おねだりをする時特有の潤んだ瞳をしているんだろう。僕の自慢の宝得は、そういった人間的な世渡り術も身に付けているんだから。
「で、でも」
「哮天犬も君を気に入っているしね。噛んだりしないよ」
 女官が頬を桃色にさせるような微笑を称えて、ブラシを差し出す。
 不死象は戸惑った視線を、しばしの間ブラシに注ぎこんだ。
 が。
「わかったっス」
 何かを決心したように、ブラシを受け取った。
「哮天犬さんにはいつも苛められてる気がスるっスけど、それだけじゃいけないっスよね! コミュニケーションが大事っス! 仲良くなるっスよ!」
「その意気だよ」
 言いつつ、堪えきれずに口元を抑える。
 不死象は本気で苛められていると思っているのだろうか?
 哮天犬は、じゃれているつもりだと思うのだけれど。現に、恐る恐るブラシを毛並みに差し入れられて、哮天犬は嬉しそうに眼を細めている。この様子は、不死象も心を動かされたらしい。
「き、気持ちいいっスか」
 くうん、と甘えた鳴き声が響く。僕を振り仰いだ不死象は、満面の笑みを浮かべて嬉しそうだった。
「やったっス! やりましたっスよ、楊ゼンさん!」
「おめでとう、不死象」
 はしゃぎながら不死象はブラッシングを続けた。どれほど経ったろう。毛並みが、緩く膨みながら、艶やかな発色をしだした頃に、不死象は満足げなため息をついた。
「これでいいっスかね」
「ああ。すごく、いいよ。綺麗になったね、哮天犬」
 頭を撫でると、嬉しそうに鼻が鳴る。
 彼は、何かいいたげに僕の瞳を覗き込んだ。
 くすり、と笑みが零れる。頷いてやると、しっぽがパタパタと踊りだした。
「不死象」
 にこやかに僕らを見つめていた不死象に、声をかける。
「なんスか?」
「哮天犬がお礼がしたいってさ」
「お礼?」
 鸚鵡返しに言葉を返した、その時だ。
 風が軋み声をあげ、哮天犬が不死象に押しかかる。倒されて悲鳴をあげる霊獣の顔を、哮天犬は、さっそく舐めに乗り出した。
「く、くすぐったい! なんスかこれは!」
「哮天犬なりの礼の表し方だよ。毛の手入れをしてくれるってさ!」
 慌てぶりが面白くて、腹を抱えて笑ってしまう。
 哮天犬は本当に嬉しそうだ。
 バタつく不死象の足と、哮天犬のしっぽは、忙しなく左右へと揺れ動いていた。
「ひゃははははは! こっ、哮天犬さんっ。やめるッス! ひゃははは!! ひゃっ、よ、よーぜんさん! 助けて欲しいっス!!」
 不死象は首をむりやりに持ち上げて、必死の形相で僕を見つめている。
 ウインクを返すと、彼の顔は絶望で歪んだ。
「よーぜんさぁあああん!!」
「哮天犬に悪気はないんだよ。気を済ませてやっておくれよ」
 笑いながら、髪を結んだ紐を外す。
 蒼髪が風に流されてサラッと辺りを漂った。
「じゃあ、僕は師叔探しといきますか」
 不死象の代わりに、と胸中で付け足す。けれど、それ以外の気持ちがあることは否めない。
 見上げた空には、いつのまにか飛行機雲が出来上がっていた。

 

end.
( → 月と太陽、或いは )

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