月と太陽、或いは

 


「師叔はどこでしょうかね」
 長い回廊を軽やかに歩く。
 青年の蒼い髪が、外の日差しを受けてきらきらと輝いていた。
 すれ違う女中たちは、羨望の眼差しで、絶世の美貌と美しい艶やかな髪を見つめる。
 対する彼の反応はというと、素っ気のないものだった。話し掛けられれば愛想は悪くないが、親しくなるつもりは皆目見られず、個別の誘いには決して応じない。青年は仙人道士である。人間と同じ目線にたって言葉を交わすなど、世界が平和であるなら考えもつかない。彼の道士、楊ゼンも、そうした仙人たちにとっての一般的な常識を身につけていた。
「楊ゼンさま、なにか、お探しですか」
 部屋を行ったり来たりする楊ゼンに、香を抱えた女中が声をかける。
 楊ゼンはニコリと微笑み、
「そんなところですね」
 と、あいまいな返事をした。
 何かを言い募ろうとする女中を置いて、足早に通り過ぎてしまったので、会話はここで終わる。女中は、残念そうに顔を俯かせた。
(城にはいないみたいだな。まぁ、不死象も真っ先にこの中を捜したろうから、予想通りといえば予想通りだ)
 女中の心中を気遣うことなど、楊ゼンには思ってもみないことだ。
(哮天犬で空中から捜すか。お楽しみのところを邪魔するのは、忍びないけど)
 歩む方向を変えて、裏口から庭に出る。
 夏の日差しは、楊ゼンの視界を、一瞬だけ真っ白に染め上げた。夏虫が忙しなく叫び声をあげる。その、みぃん、という音に微かな悲鳴が混じった気がして、楊ゼンは閉じかけた瞼に渇を入れた。
 年端も行かぬ少女が立っていた。女中の格好をして、両手に絹のシーツを抱え込んでいる。
「も、申し訳ありません」
 楊ゼンが出てきた瞬間に、少女は、中に入ろうとしたのだった。
 予想外に道士と接近したためか、頬が赤い。
 慌てて脇を通り抜けようとするので、楊ゼンは女中の腕を掴んで引き止めた。
「あ、君……」
 白い肌が、薄っすらとした桃色に染まる。
 楊ゼンには何の感慨も沸かなかった。ただ、この女の子も、他の女と同じように自分に憧れているんだな、とだけ判断を下す。にっこりと、極上の笑みを浮かべて見せると、桃色だったものが紅色に変化した。
「太公望師叔を知りませんか?」
「楊ゼンさま。は、はいっ。存じております」
 意気込み、首を大きく縦に振る。楊ゼンは上機嫌に鼻を鳴らした。
「そっか。案内、頼めるかな?」
 この女中が、どうやら捜し人に気に入られているらしいと気がついたのは、ずいぶん前だ。といっても、楊ゼンが話し掛けたことはない。
「わ、わたくしでよければ、喜んで!」
 女中は、息せきを切りながら、再び大きく頷いた。
 案内は手際よく行われた。裏から城を出て、城下町を通り抜ける。
 少女は慣れた足取りで林に入り、くねった道を歩いていった。
(何度か、太公望師叔についてきてるってコトですか)
 面白くない思いで、楊ゼンは女中の後に続いた。しかし少女に話し掛けられると、そんなことはおくびにも出さずに、愛想よく会話に興じる。少女はずいぶんと緊張しているようだった。
「太公望師叔!」
 楊ゼンが声を張り上げたのは、小さな湖に出くわした時だった。
「む?」
 釣り糸をたらしていた少年がびっくりして顔をあげる。
 蒼い髪の道士を見、次に少女を見、困惑したような顔になる。
 女中は、太公望の前に進みでて頭を下げた。
「申し訳ございません。人払いを頼まれたのに、楊ゼンさまに教えてしまいまして……」
 腰掛けた巨石に、何時の間にか楊ゼンが駆け寄っていた。太公望は目をパチパチさせて女中を見下ろしていたが、すぐに、頭を振った。
「いや、よいよ」
 こだわりのない声音だ。
 それを受けて、楊ゼンはニッコリと柔らかに微笑んだ。
 少女の頬が上気するのが、緑葉の傘の下でもよくわかる。
「道案内、ご苦労様。君は、仕事の途中だったんだよね? そんな時にわざわざ来てもらってしまって、すまなかったね」
「そんな」
 女中は、うっとりとした目つきで楊ゼンを見上げていた。
 楊ゼンははにかんだ笑顔を見せた。
「助かったよ。ありがとう」
「ありがたいお言葉です、楊ゼンさま。……――で、では」
 名残惜しそうにしながらも、頭を下げる。
「わたくしは、これで失礼いたします」
 分をわきまえている良い女だ。
 楊ゼンは頭の片隅でそんなことを思いつつ、笑顔で、去ってゆく後ろ姿に手を振った。完全に見えなくなると、鳥のさえずりだけが森林に響き渡る。楊ゼンは断りもなく巨石に登り、太公望の隣に腰を降ろした。
 太公望はすぐ近くに寄ってきた道士には目もくれず、俯いた視線を釣り糸に垂らしている。
 その先に針がないことは、楊ゼンも知っていた。風に吹かれて、湖に波紋が立つ。糸が流されて、その波紋をさらに大きく広げた。
「で、楊ゼン」
 波紋から視線を外す太公望は、密かなため息をついた。
「わしにどんな用じゃ? 何か揉め事でもあったか?」
「いえ。特には」
「?」
 怪訝な顔をするも、楊ゼンに自ら語る気はないようだ。
 仕方なしに、太公望は言葉を重ねた。
「じゃあ、何のためにわしを探していた」
「そーですね。不死象のためかな?」
「はあ?」
「彼が、貴方がいないと狼狽していたもので」
 隣に腰掛けた彼は、あっけらかんと言い放つ。
 太公望の肩が、ズルリと下がった。
「そ、それだけか?」
「はい、と言うべきなのでしょうけれど、ちょっと違いますね。僕が貴方に会いたかったから、と、いうのも理由の一つです」
「ははぁ。主は相変わらず変人じゃ。わしは、今は主と遊ぶ気はないわい!」
 楊ゼンはゆるく身体を揺らして笑った。
 癪に障る男だ、と、太公望は内心で毒づいて視線を糸に戻す。それを防ぐように、楊ゼンの腕が糸を手繰り寄せた。
「何をする」呆れを混じらせて、ため息をつく。
「貴方がつれないことを言うものですから」
 ますますため息が大きくなる。楊ゼンに悪びれた様子はまったくなかった。
「つくづく、お主というやつは……。第一、だな」
 コホン、と息をつく。脳裏に、さきほどの女中の赤らんだ顔があった。
「あれこれと色目を振りまくのをやめい。特に、人の娘には注意せよ。彼女らがいくら好意を示しても、わしらは仙人だというのを忘れるでないぞ」
「おや。僕は、いつだって忘れてませんよ?」
「どこがじゃ。ああいうふうに、気軽に誘惑しようとするでない」
「ああいうふうに」
 眉を顰めて、言葉を反芻する。すぐに思い当たった。
「師叔、別に、先ほどの女中に僕は思い入れなんてありませんよ」
「どーだか。仙界のプレイボーイの考えることは、わしには及びもつかんでな。しかし彼女はイカンぞ。人間は、イカン」
 楊ゼンは口元を引き締めさせた。そんなつもりなど、微塵もないのだ。
「しかし、やはり女子は主のような美形がいいのかのぅ。主の前となると、顔つきが違うわ」
 ム、としたまま太公望を見つめるが、思い当たることがあり、楊ゼンは瞬きをした。
 太公望は、表情こそ冷静を保っているが、口調はボヤいているようで、まるで、まるで……。
「僕に嫉妬してるんですか?」
 直球で尋ねることにした。
 太公望はあわや巨石から落ちかけた。
「な、なにを?!」
「今の少女と、僕の仲とをですよ。そういえば、今のコ、どこか竜吉公主を思い出させる。髪の長さとか、目つき、とか」
「……何が言いたい」
 不満そうな呟きに、楊ゼンはニコリと微笑み返した。
「僕に、嫉妬しましたね?」
「だアホ」
 太公望はプイと横向いたが、それでも、楊ゼンは嬉しげな微笑を崩さなかった。
(こうして、どんどん、僕は貴方に喰い込んでく)心中のかげりが顔をだして、複雑そうな顔をしたが、それでも、それを嬉しいと感じる。
(ホントに、この人に夢中なんだなぁ)
 自分で自分に驚きつつ、ピッタリと肩を合わせる。幸せだった。

 

end.

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