i (愛)
「行けっ。哮天犬!」
朗々とした声が響くのと同時に、青年の袖口から一陣の風が飛び出した。
それを受けて、蒼い衣装や蒼い髪がハタハタとはためく。
青年の特徴を一言で表せば、蒼い人ということになるだろう。青年の蒼眼は鋭い輝きを点して、飛び出していった風の塊を見つめていた。猛烈な勢いで空を駆ける風は、少しも経たない内に違うものへと姿を変え始めた。
輪郭が生まれ、手足が生まれ、尻尾が生まれる。
ふわりとした巻き毛を体中から生やした、白い大きな犬だ。
「楊ゼン、殺すなよ!」
「わかっています」
蒼い人の袖口は、森を走る影へと向けられている。
楊ゼンの指先は、残酷なほどはっきりと、懸命に逃げる影の背中を指し示していた。
ばうっ。指先と背中との間を一直線に駆け抜けた哮天犬は、短い吼え声と共に影の背中を貫いた。鈍い悲鳴が不死象の上にいる二人の仙道の耳にまで届く。太公望は、顔を顰めて楊ゼンを見上げた。
「あれくらいでは死にませんよ」
楊ゼンの指先はいまだに影の背中を捕らえ、瞳は動揺することなく非難の眼差しを受け止める。
「乱暴は好かん」
「僕は、甘くないんです」
楊ゼンの指先に導かれるように、天に舞い上がった好転犬は、二度、三度と影に体当たりをかました。右へ左へ、大きくよろめいた瞬間を狙って足元を掬い上げる。
派手に転倒したのを見届け、楊ゼンと太公望は目配せをした。
「もっと穏やかにいきたいもんじゃの」
尻尾を掴んでいた楊ゼンは、一足先に地面に飛び降りた。
不死象が下降していた途中だったので、太公望もすぐさま後に続く。
彼は、楊ゼンの三閃当を喉元に突きつけられて、歯がゆさそうに唇をかみ締めていた。
「さて」
真ん前に仁王立ちになり、コホンと堰をつく。
「おぬし、妖怪仙人とお見受けするが。何ゆえ周に潜りこんでおった? 何ゆえ民を傷つけた?」
妖怪仙人は、赤い髪と赤い目をもった細身の男性だった。こけた頬と、アーモンド型の瞳がねずみを彷彿とさせる。
「お前は民が死ぬと悲しむと聞いた」
ゲヘッ、ゲヘッ、と男の喉が奇妙に鳴いた。
「だから殺してやった。ヘヘヘッ……。お、おれ程度の力じゃ、お前には太刀打ちできないけどな、べ、べつの方法を取れば、ま、負けはしねえんだぜ」
「民を殺すことが別の方法、か」
三先頭を突きつけたままで、楊ゼンはため息をついた。
唇は嘲りの形に歪み、瞳には氷結した大地地のような輝きを称えている。彼はチラリと、瞳だけで太公望をみつめた。彼の眉間に少しだけ皺ができていた。
(この人は変に気負っちゃうからなぁ)
楊ゼンの心中を代弁するかのように、太公望の口をついた声音はいささか硬いものだった。
「わしを恨んでいるというわけか。どんな恨みを持っている?」
「金今島だよ! あそこが落ちたときに、アニキが巻き込まれた……。おれは見たぞ。お前が、瓦礫の上に立っているのを」
「ふむ。しかしだからと民を狙うのは筋違いじゃなかろうか?」
「知るか! お、おれは、どんな形でもお前が辛くなりゃそれでいいんだよ!!」
「むぅ」ボリボリと頭を掻きながら、太公望は空を見上げた。
「できれば穏便に済ませたいと思っているのではないでしょうね」
冷えた声音を投げつけるのは、楊ゼンだ。
太公望は頬に苦味を乗せて彼に向き直り、不死象は導師の後ろでオロオロと二人を眺めていた。
「穏便で済むなら、それでいいじゃろう」
「時と場合によるんですよ。いけませんよ、スース。金紺島が落ちて以来、あなたは少しだけ弱気になっている」
「……そんなことはないよ」
「いいえ、あります」
楊ゼンが頭を振る。間にはさまれた妖怪仙人は、二人の動向を注意深く見つめた。
「スース、これから、いよいよ殷を攻めようという時期ですよ。妖怪仙人の一人や二人、殺すのを躊躇っていてどうするのです」
「殺す必要がない場面では殺さない。当然のことだ」
「どこがですか。貴方に殺意を持っている。民を殺した。こいつを殺すには、十分な理由でしょう」
「そうして何事も力で解決するのはどうかと思うぞ。わしらには、何のために口がついておるのだ!」
「理想論を掲げる場面と、そうでない場面の区切りがついていないのだ、貴方は!」
「ご、ご主人、楊ゼンさん!」
不死象が割って入り、肩を押された楊ゼンがよろめく。
太公望は、鼻先を風がかすめるのを感じた。
不死象が、あっと驚いた声をあげる。妖怪仙人の爪は一瞬にして伸び、太公望の鼻先に迫っていた。
チリ、と先端が鼻先に触れる。大きく眼を見開き、太公望はニヤリと邪悪に笑う妖怪仙人と目を合わせた。瞳ににじむのは、深い憎しみ。
「ご主人!!」
不死象の悲痛な悲しみが耳に届く。彼の心は静かだった。
細まった瞳は、予想通りの映像を映し出す。
うぐ、と唸った妖怪仙人は、次の瞬間には地面に臥せっていた。
背後には、三尖塔を突き出した格好の楊ゼンがいた。
太公望が面差しをきつくする。妖怪仙人の体が大きく振れた。浮き上がったかと思うと、乳白色の輝くモノが飛び出していく。楊ゼンは、冷めた顔をして空に彼方に消えていく魂縛を見送っていた。
「おぬし」
太公望は、妖怪仙人の躯を見下ろした厳しい眼差しのまま、楊ゼンを見上げた。
「今後はそういう真似をするでない」
「気づきましたか」
声音は涼しげで、反省の色は見られない。
「わからないでか。わしは、そういう手段は好かんのだよ」
「彼はチャンスを窺っていました。ずっと、貴方を殺そうとしてましたよ」
「ど、どういうことっスか……?」
両者の間に散る火花におののきながらも、不死象は素直な疑問を口にした。不死象には、二人が唐突に口論をはじめたように見えたのだ。
「こやつは」
太公望は、苦しげに躯を見下ろした。
「わざと隙を作って、こいつがわしを攻撃するように仕向けたのじゃ」
「ええっ」
ギョッとして、楊ゼンを振り返る。
彼も彼で、むすりと膨れ面をしていた。
「そんな眼で見ないでくれませんか。こうでもしなきゃ、スースは攻撃を許してくれなかったでしょう?」
不死象にそれを判断するのはムリだった。
困ったように主人を見つめる彼を見て、楊ゼンはため息をついた。
「とにかく、解決したようで何よりです」
指を天に向け、くるくると円を描く。円陣に沿うようにして、真っ白い犬が姿を現した。
哮天犬に乗るようゼンに、太公望は何も言わない。ようぜんは好転犬に乗ったまま、しばし中空をさまよっていたが、やがて、浅く息を吐き出した。
「わかりましたよ。今後は自粛を考えます」
太公望は、複雑そうな眼差しを楊ゼンに向けた。
「でもこれだけはわかって下さい。僕は、何より貴方のことを考えて行動してるんですよ。どんな時だって」
二人の視線が行き交う。楊ゼンは太公望の応えを待っているらしかったが、一向に反応がないのを見てあきらめたようだ。神妙な表情を引っ込め、鮮やかな微笑を口元に称える。見ほれるようなそれは一瞬で、次の瞬間には、哮天犬と共に空の点となっていた。
「ご主人」
不死象が遠慮がちに声をかけたのは、ずいぶん経ってからだった。
太公望は、楊ゼンが消えた空を長いこと見上げていた。
「うむ。弔ってから、わしらも行こう。公務が溜まるのでな」
どこかうわの空だ。
妖怪仙人の地が大地ににじみ、あたりはにわかに赤く染まっていた。
つづく.
( → I (わたし) )
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