最後に残ったもの

 


2.
 どこかからバイクの走音がひびいていた。
 第三新東京の人口は極端に少なくなっている。
 マンションに鍵をかける必要はなかった。昨日までは。
 パチリ、という音とともに照明が点灯する。戻ってきたわずかな人々は、誰もが心身ともに傷つき途方に暮れている。優遇を受けているネルフ関係者は妬まれやすい。
 シンジは、教えられた通りにカーテンを閉ざし、入り口全てに鍵をかけた。
 まずは片付け、と考えていたシンジは拍子抜けしたのを隠せなかった。部屋はすべて整頓されていた。カーテンが破け、窓ガラスが散っていた部屋も、全てが新調されていて知らない場所のようだ。
 冷蔵庫にはたっぷりと食品がつめられ、缶詰は山積みになっていた。水のペットボトルも大量にある。物資を搬入したものは事情を理解しているらしく、アスカの部屋はダンボールで埋められていた。
「なんだ、やることもないじゃないか……」
 シンジは、リビングに戻った。ペンペンもミサトもいない。
 天井を見つめながら、ぼそり、呟いた。
「ひとり、か」
 テーブルには携帯電話が投げ出されている。
 ネルフから支給されたものだ。シンジは、仮、ではあるが未だにエヴァパイロットとしてネルフの一員に扱われていた。
 けれど、彼を引き取るものはいない。その意思を見せているのは冬月だが、激務が許してくれていない。シンジは、無人の部屋みたいだ、と脳裏で囁いた。
 おかしくて笑った。
「無人、か。僕がいるのに」
「君以外の人もいるよ。ここに」
 突き刺すように、冷えた声がした。
 シンジは驚愕して固まった。声は真後ろから聞こえたが、ふり返ることもイスを蹴ることもできなかった。聞こえるはずがない声だった。
「シンジ君、ただいま」
 抑揚もなく感情の燐片さえ示されずに告げられる。
 肩に置かれた手は冷気を伴っている。シンジは、震える舌を無理やりに動かした。
「カヲル君なの?」
「そう。僕だよ」
「どうして? カヲル君、死んだ……殺した――ハズ――なのに、どうして?」
 黒髪が不規則に揺れてさざめく。大きく震える体を、白い腕が背後から抱きしめた。
 銀色の髪が肩口にうずめられる、その柔らかな感触にシンジは身震いした。
 両腕は、自然に自らの体を掻き抱いていた。
「うそだ! 違う。カヲル君、ウソでしょう。これもウソなんでしょう」
「本当だよ。僕は戻ってきた」
「なんで、何故だい。どうしてだよ!」
 混乱のままに活目して背中を見る。カヲルは、肩に頬を押し付けながらもシンジを見据えていた。赤い瞳とバチリと視線が交差する。シンジは、喉の奥で悲鳴をこぼした。
「わからないのかい」
 責めるとも悲しむともつかない。
 カヲルは、テーブルの上に腰をおいた。シンジに向き直り、両頬を抱く。
「呼んだんだよ、シンジ君が、僕を」
「僕が? そんな、わからないよ」
「でも僕は君に呼ばれた。第十七使徒タブリスそのままの記憶と姿と能力をもって、僕は蘇っているんだよ。シンジ君、わかってくれる。君が、バラバラに溶けてた僕の魂をひっぱりだしたんだよ」
「よくわからないよ。ぼくは、ただ、カヲル君が死んだことが、悲しくて……」
「ひとりが、悲しくて?」
 シンジの瞳が横に逸れた。
「ねえ。あのままでも良かったんだ。僕は、あのままでも」
「カ、カヲル君は」シンジの声は掠れている。
「キミは生きるべきだった! 僕なんかに殺されるべきじゃなかったんだ」
「僕は死にたかった。生きたくないんだ」
「どうしてだよ。カヲル君、生きてよ。殺したくなんかなかった!」
「存在するだけで、僕は僕の存在価値を握りつぶしつづけているんだよ。こんな残酷なことってあるかい? 君は再び、僕にそれを押し付けようとしている。わかってる?」
 シンジは傷ついたようにカヲルを見つめた。
 しかし、見つめた先の少年も、傷ついたように眉根をひしゃげさせていた。
「生きることは苦痛だ。シンジ君、君は僕にとって唯一意味のあるリリンだよ。僕を呼び寄せるのも、僕が吸い寄せられるのも君しかいない。けれど僕は二度目の生は望んでいないんだよ……」
「君がなにを言ってるのか、理解したくないよ!」
「逃げないで、シンジ君」
「なんなの? 僕になにをさせたいの?!」
「……――贖いを」
 あがない? と、シンジが訊ねる。
 カヲルは少年の額に自らの額をくっつけた。下がろうとした頭を鷲津かんで押しとどめる。
「君が憎いよ」シンジの気配が張り詰めた。
 数秒のあいだ、窺うような間をおいてから、カヲルは言葉を続ける。
「同じくらいに愛しい。君はね、少しだけ考えなしな祈りを捧げてしまったんだよ。リリスもゼーレもいないこの世界で、ほんとうに欲しがっていたものを与えてどうしようというの?」
「ほんとうに、欲しがっていたもの」
「そう。君が殺してくれたあの時だよ」
 シンジが微かな反応を示す。
 自嘲気味につりあがった唇が、額に押し付けられた。
「僕を押しとどめるものがなにもないんだ」
 くっつけたまま、カヲルは喋りつづけた。喋るごとに昂ぶっているかのようだった。
「リリンなんて一瞬で滅ぼすことができる。それは望むことではないけど、不可能なことではないんだよ」
「……カヲル君は、やっぱり僕を裏切るの?」
「僕はアダムより生まれし生命体。君たちリリンとは違うものだ。シンジ君、かつての僕らの邂逅は仕組まれたものだった。あそこには裏切りもなにもないんだよ。最初から、ああいうものだって定められてた」
 シンジは目を見開いた。
 間近の顔をどけようと、初めて抵抗を見せる。胸を抉られたようで、目の奥がツンと痒くなった。
 白い腕が、胸を叩くシンジの両腕を絡め取る。彼が気づいたとき、床に組み敷かれていた。
「今は違う。だから贖いが必要なんだよ」
「どういうこと?! 難しすぎて僕にはわからないよ!」
「わかっているはずだ。シンジ君……。僕を止めるものは何もない。だから、シンジ君は僕のリリンでいなくちゃならない。阻むものはないんだよ、何も」
 首筋を辿る唇に、シンジは喉を仰け反らせる。カヲルは目を細めた。上半身を持ち上げ、まっすぐ、シンジを見下ろす。
「こんなにも君を愛しく思う僕を蘇らせて、放っておくなんてつれないことはしないよね……? 僕は芯まで君のものなんだよ。シンジ君は僕を殺した。だから、僕はあそこで終わるはずだったのに。今は違うんだ」
「カヲル君は、僕を怒っているの」
 声が震えていた。
「そうだよ」
 皮肉げに眉根をゆがめて、しかし、カヲルは微笑んだ。
「同時に歓喜しているけれどね。僕は君のものだ……。だから、君は贖いとして僕のものになるんだ」
 シャツのボタンがはじけ飛んだ。露わになった鎖骨に齧りつかれて、シンジは呼吸を飲み込んだ。

 

( → 3. )

** もどる