最後に残ったもの
3.
「信じられません!」
甲高い叫び声が、視聴覚室に響きわたる。
マヤは震えながら自らの顔を覆う。マコトが、気の毒そうな視線を送った。
「彼は補完計画のまえに死亡したんですよ……。ありえないわ」
「しかしね、こうして彼は我々の前に現われた」
「どうするんですか。もうエヴァンゲリオンはありませんよ」
「もうフォースインパクトは起きないだろうけど、使徒の力があれば、俺たちなんてイチコロだぜ」
冬月は唸った。スクリーンに映るのは、第十七使徒の微笑む姿だ。
彼は唐突に背後に現われた。冬月がこしかけ、かつてはゲンドウが腰かけたイスの後ろだ。監視カメラの映像が残っていなければ、夢だったと信じ込もうとしただろう。
手元のリモコンを操作して、カヲルが現われた直後の映像を再生する。オペレーター三人組は、口を閉ざして画面に集中した。
『お久しぶりです。いつぞやは、お騒がせしました』
『き、きさま……。どうして』
『LCLの海から蘇ったんですよ。シンジ君のおかげでね。
でも今、話題にするべきはそれじゃない。僕はあなたに危害を加える気がない。あなたに限らず全てのリリンに対して。たったひとつのケースを除いてね』
『……警告にきたのか』
『そう思ってもらって構いませんよ』
冬月がゆっくりとふり返る。
ふり返った、首の位置。そこにはあらかじめカヲルの人差し指が置かれていた。
不意に喉仏を突かれた冬月はギクリとして硬直する。カヲルは微笑みを深くした。
『リリンは遠くにつれていかれてしまったけれど、ここには、それ以上の引力があるから諦めることができる。そう思えるようになった自分が嬉しいよ。すべて彼のおかげなんだ。ねえ、誰のことを言ってるか、わかるかい?』
冬月は困惑を浮かべたまま沈黙している。カヲルは首を傾げた。
『碇シンジ君だよ……』
つう、と、首をなぞる。
なぞった個所は赤く腫れあがっていた。
『よく聞きたまえ。君たちがシンジ君を僕に差し出すというなら、危害は加えない。できうる限り使徒としての本能を放棄して生きてあげようと思うよ。でも、邪魔をするというなら、リリスの文明全てを廃に変える覚悟でいてほしいな』
カヲルの輪郭が薄くなる。そのままで、彼は後退した。
背後の壁についた体が、すう、と壁に染み込む。幽霊のようにカヲルは消え去った。
呆然とイスに沈み込む冬月が後に残される……。冬月は、停止ボタンを押した。オペレーターたちの視線が殺到する。冬月のことばに、彼らは俯くしか出来なかった。
「要求を呑むしかないだろうな」
結局は、それしかない。選択肢はなかった。
「シンジ君、かわいそう」
マヤが、押し殺した声で哀れんだ。
「生贄だわ」
3 − さいごにのこったもの.
「さっきマヤさんから連絡があったんだ」
「へえ」ベランダに作った家庭菜園の土をいじりながら、カヲルはどうでもよさそうに頷きを返した。
「アスカ……えっと、同じエヴァのパイロットなんだけど」
「知ってるよ。面識はないけどね」
「そうなんだ。その、彼女はまだ起きなくて、それと、その」
「フォースパイロットはどうしているかって?」
「…………」
銀髪が風に流れる。
立ち上がった少年は、ふんわりと微笑んで泥を落とした。
部屋に入り、冷蔵庫をあける。ミネラルウォーターを取り出すしぐさは馴れていた。
電気や水道が復旧し、生活は以前と同じようなものになった。ただ、ミサトとアスカがいないかわりにカヲルがシンジの傍にいた。それから、一ヶ月が経とうとしている。
片隅で自主勉強のためのノート(といっても、命令である。自宅待機を命じられ、さらには学校もないのだが、定期的にドリルが送られてくるのだ)を広げていたシンジの隣に、カヲルは腰をおろした。
シンジは、戸惑いがちにカヲルを見上げた。
「いつの間にネルフに?」
「先に手を打ったほうがいいと思ってね」
「どういうこと?」
「シンジ君が不安に思うことは何もないよ」
肩に手がおかれる。シンジの体がかすかに震えた。
「カヲル君……。僕、わからないよ。みんないなくなっちゃった。また、君もいなくなるの?」
「大丈夫だよ。ここにいる」
睦言のような甘さで、カヲル。
シンジの頬が朱色に染まるのを見て、カヲルは天使のような愛らしさで目をしばたかせた。唇を頬に押し付ける。トマトのように真っ赤になったのを見て、カヲルは声をたてて笑った。
「君はかわいいね」
「カ、カヲル君っ!」
「ここには僕らしかいないんだ。いいだろ、これくらい」
「これくらい、って。カヲル君、いったい君は――」
カヲルが唇をニンマリとつり上げたので、シンジは慌てて話題を変えた。
「まぁいいや。とにかく、勉強の邪魔だよ!」
「まだ終わってなかったのかい?」
何気ない一言はグサリと突き刺さった。
カヲルがどんな教育を受けたのか、それはシンジの預かり知らぬところである。
けれど、彼は、シンジが入浴している最中に一週間分の宿題を終わらせてしまったのだ。
容姿も頭脳も飛びぬけて優れている同年代の少年に、シンジとて羨望のほかに嫉妬を感じることがある。シンジは、口を尖らせて腰をあげた。
「どこにいくんだい」
「部屋だよ。ここじゃ、落ち着いてできない!」
「じゃあ僕も部屋にいこうかな」
「って、それじゃ意味がないじゃないか!」
シンジとカヲルは二人でひと部屋を使っている。
アスカが作ったしきりを取り除いて、広広とした空間まるごとを一つの部屋としたのだ。ベッドは二つある。しかし、カヲルは知らないひとのベッドはいやだと言って、たびたびシンジのベッドに潜り込んでいた。
「しょうがないよ」
並んで歩きながら、カヲルは涼やかに言った。
その一言でシンジは黙らざるを得なかった。彼は、今日の分を明日にまわすことを決めた。
「僕は君から離れない。君だって、拒絶する権利なんかないものね」
end.
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