最後に残ったもの
1.
LCLの海から渚カヲルが帰還した。
少年は、砂地に倒れたまま一日を過ごした。
さらに一日。首筋に手を伸ばしたのは四日目だ。
「補完とは無関係であるはずなのに、生きているんだね、僕は。君のせいかい……?」
傷跡ひとつ、腫れのひとつもない真っ白な首筋を辿りながら、カヲルは唇を噛んだ。
上半身を起こし、あたりを見回す。コンクリート片があたりに落ちていた。見上げた先には、巨大な人の後頭部がある。半分以上LCLに沈んでいたが、カヲルはすぐに誰の入れ物であったかを理解した。
彼女の向こう側には、かすかに明かりが見える。補完計画が遂行されてから、月日はさほど進んでいないとカヲルは確信した。この界隈は、復興もされずに寂れたまま。浜辺に並ぶ建物には人気がない。持ち主のいないオートバイが道路に転がっていた。
カヲルはジャケットとズボンを拾った。補完された誰かの衣服なのだろう。
サイズは、少しばかり大きかった。
「いるね。向こうに」
確信がこもっていた。
バイクに跨ったカヲルは、ほんの僅かだけ、目を細めた。エンジンが急速に沸騰する。ギアをいれるでもなく、タイヤは、意思を持ったように滑り出した。
1−2.
「シンジ君、あとは、私たちに任せてくださいね……?」
機嫌をうかがうように、マヤはシンジを覗き込んだ。俯いているために表情は読み取れない。
しかし、全身から立ち昇る乾いた空気は、雄弁に物語っていた。
「気に病まないで。シンジ君のせいじゃないから」
マヤは気遣わしげに眉を歪ませる。強張った声が、わかっています、と性急に告げた。
「むしろアスカは僕がいない方が清々するんじゃないですか」
「そんな。一緒にサード・インパクトを生き抜いた仲間じゃないの」
「アスカ、おかしかったじゃないですか。精神がやられちゃって。もう、あっちはそうと思ってないですよ。僕、彼女に嫌われてますし」
「嫌う? アスカが、シンジ君を?」
「そうですよ。マヤさん、僕、本当はアスカの傍にいたんですよ……。二日くらいかな。でも、あんまりアスカが気持ち悪いって叫ぶもんだから、帰ったんです」
くつ、と、シンジは卑屈に鼻を鳴らした。
「ミサトさんのマンション、ぐちゃぐちゃで、居場所を作るだけでも大変でした。彼女が生きてた時にも、あんなグチャグチャにはなってませんでしたよ」
無意識に、伸びた手がシャツの胸元を鷲づかむ。
十字架を紐で吊り下げた飾りが下にある。マヤはそれを知っていた。
「でも、電気も水道も復旧したみたいで良かったです。そうじゃないとつらいですから。あそこに、戻るの……」
すばやく、マヤが唇を舐めた。からからに乾いていた。
彼女の背中には、白い扉が寄り添っている。
向こう側には、セカンド・チルドレンと呼ばれた少女がいた。ベッドに転がり、点滴を受けている。
事件の真相に直面していたためか、ネルフ所員が自己を取り戻すのは早かった。
マヤは、大の字に寝転ぶアスカを見つけた。
自失したアスカをつれて廃墟にこもり、一週間もするころになると、マヤは再びネルフの制服で身を包んだ。世界の変わりように戸惑ったが、人々はぞくぞくと帰還したのだ。
新しいネルフの仕事は、復旧作業の手伝いとLCLに溶けたひとびとのサルベージだった。所長がいないので冬月が指揮をとった。彼は、ゲンドウのサルベージを急がせた。
それは三日で中止になった。今は無人となったミサトのマンションで、シンジが発見されたからだ。
ネルフにつれてこられ、サルベージの話を聞かされると、シンジは首をふった。
『父さんは死んだよ。わかるんだ』
冬月さんのところに連れて行って、と言われてマヤは少年を案内した。
シンジは痩せこけていた。ネルフは彼を特別病院にいれた。一週間ほどで退院となったシンジだが、アスカは、未だに自失状態を抜け出ていなかった。
ほとんど意思をみせないアスカだが、マヤは、シンジが罵倒されたという話を聞いた。
『見苦しい』
『未練でもあるワケ?』
『気持ち悪いって言ったでしょ』
四回目のお見舞いだったという。
『とっとと消えなさいよ』
シンジが、部屋に帰ると言い出したのが今日の朝だ。
居合わせた看護婦が、マヤに教えてくれたのが昨日の夜。偶然なわけがない。マヤは、拳をつくりながら、必死に言葉をさがしていた。
黒髪のつむじが見える。なにか、お礼をいったらしかった。
目もあわせずに少年は去っていこうとする。マヤは、言葉が定まらないままに呼び止めた。
「アスカのこと、気にしないで! きっと、本心じゃないから。混乱してるだけよ」
頼りなげな、縋るような瞳がマヤを射る。
この時になって、マヤはシンジとてそう思いたいのだということに気が付いた。
少年は、小さく頭をさげただけで、戻ってこようとはしなかった。
( → 2. )
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