i と I (愛とわたし)

 


 山のようにつまれた書簡を見て、蒼い髪の青年はため息をついた。
「また、仕事を溜めましたね」
「むぅ」
 唸り声を返すのは、書簡の山間に顔を出す太公望だ。
 机に突っ伏し、わずかに顔をあげた彼は微動だにしない。少しでも動くと、左右につまれた書簡が崩れだしそうなのだ。
「旦のやつも、人が寝てる間に器用なことをするのう」
 皮肉じみた声音には、どこか、途方にくれた響きがある。
 青年は、太公望から視線を外して窓を見つめた。曇り空の下で兵士たちが鍛錬を重ねている。飛び散る汗が、時折りきらっと瞬いて、筋肉質な男たちの腕を彩った。
「息抜きは後回しですかね」
 訓練の様子を見つめながら、手にもった盆を手近なテーブルに降ろす。
 お茶の湯気が、ふわりと前髪を揺らした。
「むうう〜〜。楊ゼン、これをどかしてくれんのか?」
「それくらい、ご自分でどうぞ。子供じゃないんだから」
「お主、近頃つれないぞ」
「どうでしょうね。お茶、ここに置いていきますから」
 太公望は、物言いたげな瞳で楊ゼンを見つめている。
 立ち去ろうとした青年は、しばし躊躇うような素振りを見せたが、足を止めて振り向いた。執務室には、小さなテーブルとイスがいくつか置かれ、一番奥で大窓に挟まれる形になって軍師の使う横長の大机がある。書簡は机からこぼれて、床にまで散らばっていた。
「仕事は?」
「午前中に終わりましたよ」
 呆れて言い放つが、楊ゼンの心中とは相反するように太公望は口元を綻ばせた。
 すかさず、否定の言葉を口にする。
「手伝いませんよ」
 チ、と軍師の舌が鳴った。
「で。本題をいわなくていいんですか?」
 内心で勝ち誇った笑みを浮かべて、太公望を見つめる。
 少しだけ驚いた顔をしたが、彼は、睫を伏せて唇を尖らせた。
「相変わらずイヤミなやつじゃのう。察しがいいといえば、聞こえは良いが」
 コホン、と、小さな堰が唇からこぼれ出る。周囲の書簡がビクともしなかったので、楊ゼンは、器用なヒトだと胸中で呟いた。口に出さなかった理由は、太公望が目の色を変えて見上げてきたからである。
「一昨日、周で魂縛が飛び去るのを見たという報告が入っておる。お主が、兵の稽古をつけた日だったな。心覚えは?」
「あります」
 しれっとした答えをわかっていたかのように、太公望はため息をついた。
「どうしてそんなことをした」
「わかりませんか」
「わからぬな。以前の忠告を忘れたわけではあるまいな、楊ゼン?」
 楊ゼンは、にっこりと微笑んだ。
「貴方の言葉を忘れる僕ではありません」
「…………のう。堂堂巡りをする気はないんじゃが」
 微笑を崩さぬまま、音もなく机に近づく。
 書簡の山に挟まれながら、太公望は端正な顔立ちの道士を見上げた。暖かな春を思わせるような、慈愛に満ちた口元と、冬の厳しさに似た冷ややかな瞳が、そこにある。
「貴方を愛しています」
 かしこまった態度で頭を下げ、手を伸ばす。
 動けない太公望の両頬に、体温の薄い手のひらが重なった。
「何度も聞いているぞ」
 仙界大戦以前から聞かされていた睦言なので、太公望は動じなかった。
 楊ゼンの瞳が嬉しげに細められる。
「僕は何があっても貴方を守る。
 そう決めました。そのためなら、ちょっとくらい嫌われてもかまいません」
 春と冬を同居させたまま、青年は、ぞっとするような笑い顔を浮かべた。うつ伏せになった姿勢のまま、顔だけを楊ゼンに掬い上げられていると、壮絶さから喉が渇く。
「本末転倒という言葉を知らぬのか」
 唇を湿らせ、呟く。楊ゼンは愛嬌よく笑い、引っ込もうとした太公望の舌を舐めた。
 ざらり、と、挑発するかのような仕草に身体が震える。しまった、と口中で漏らすと、楊ゼンは鼻で笑って身を翻した。蒼髪の道士は、背中で書簡の崩れる音と太公望の悲鳴を聞いた。
「では、失礼します」
 書簡に埋もれてヒクつく腕を、名残惜しげに一撫で。
 ついでとばかりに、書簡の山から愛しい人を引きずり出す。
 太公望はげんなりした顔のまま、部屋を出て行く楊ゼンを見送った。退出するまぎわに肩越しに振り向いた彼は、くすりと口角をあげた。
「これが愛か?」
「もちろん。愛していますよ、誰よりも」
 二人の視線が行き交い、外からは兵士たちの号令が聞こえる。
 先に切り上げたのは楊ゼンだった。では、と残して姿を消し、足音が遠のいていく。太公望は、身体にかかっていた書簡を押しのけ、楊ゼンの消えた入り口をみやり、ぶるるっ、と発作的に頭を振るった。
「わしまで、おかしくなりそうじゃのぅ」

 

end.

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