現実という壁は、高く、あいだを聳えて立っている
「ほんとうに大丈夫?」
これぐらいの仕事だったら貴方がいなくても。
「いや」語尾を強めた一言を発し、続けた。
「平気だ」黒光りする車体を見せつけるようにベンツは右折した。微弱な振動に前髪を揺らす二人は、共に小柄であるが、女の方は『小柄』という次元をいささか超越している。かなり、チビだ。
「……無理はしないで」
しばしの沈黙の後に、チビが言った。
傍らの少年は――少年、と言っても滲み出す沈痛な雰囲気は老齢の男のそれのようでもあった――片眉をあげると同時に名を呼んだ。「センリツ」浮かんだ驚色はすぐに消え去り、元の能面のような面立ちが張り付いた。
低い声音が、謝罪の意を込めたとも感謝の意を込めたとも取れぬ呟きを零す。
「すまない」
女は軽く微笑むことで返事をするも、それすら心を抉るには充分だった。
センリツの言動に非はない。少年の真面目すぎる性格が災いしていた。本人は抉られたと気付いていないので、余計にタチが悪い。少年は知らぬ内に瞼を閉じ、上に指を置いていた。数分が経過した後に、はっとしたように眼を開ける。彼は頭を振って車窓に視線を移した。
と、隣を走る一般乗用車が僅かに遠ざかるのを見た。
少年は嘲るような笑みを、ほんの少しだけ唇の端に貼り付けた。運転手の気弱を嘲ったのではなかった。隣り合わせた車が、途端に少しだけ車体を遠のけるさまをしばらく眺めたが、やがて再び眼を閉じた。そうしていると周囲の騒音が安らいで、いくらか気分が落ち着く。現在の居場所について、彼は後悔などしていなかった。ただ、少年本来の性質とは百八十度方向が違う悪魔の巣窟は、絶えず心を蝕み、さながら蛇のように少年の首に巻き付いていた。
「……ふぅ」
意図せずに零れたものだった。
センリツの心配げな視線に気付き、緩く頭を左右に向ける。
「大丈夫だ」
「クラピカ、あなた、それを何回言ったと思っているの」
今度はセンリツがため息を零す番だった。
(どうかしているな)ベンツはホテルへとたどり着いた。
自室のドアを後ろ手に閉め、クラピカは眼を閉じた。
もしかしたら癖になってしまったのかもしれない。浮かぶのはセンリツの丸っこい顔、やつれ果てた雇い主の顔、占いの能力を無くした少女の顔、仕事先の……。
両目のカラーコンタクトを外しながらも瞑想を続けると、その内に医者を志す男が浮かんできた。暗殺一家の元に生まれた、自由を切実する哀れな子供も浮かぶ。そして、太陽のような笑顔で父親を捜すんだと叫んでいた少年。彼らが思い起こされると、後は闇が漂うばかりだった。クラピカは小さくうめき、一歩一歩を踏みしめるようして進んでいった。
「本当にどうにかしている」
指を締め付ける鎖がじゃらりと重い音を立てた。
誘われるように、少年は鎖を瞼に押し付ける。忘れないと、立ち止まらないと、この瞳に誓ったのだ。しっかりしろ、と口の中で囁いて少年は顔をあげた。
唇を噛み締めたままシャワー室へ消え、水音を響かせる。程なくして、彼はベッドの傍らに座り込んでいた。夜着を纏ったままで両腕を組み、深い物思いに沈んでいる。今後のプランを練り込む必要があった。表情はぴくりとも動かずに――いたが、時針が日にちの変わり目を指した所で彼は突如として身体の向きを変えた。ベッド正面に設置された大窓。
それを睨む瞳には、それまでなかったギラギラとした輝きが宿っている。
「ノストラードファミリーのネオンはもう使い物にならない。それを知った上での行動か」
反応はなかったが、クラピカがさらに言葉を重ねると細長い人影がガラスに映し出された。
「やろうと思えば、私は一瞬で貴様を殺せるのだぞ」
「おれも甘く見られたもんだァ」
ガラス越しに影がいう。いや、既にガラス越しではない。それはひょろりと長い男性で、彼の頭だけがガラスを通り抜けて室内に入り込んでいた。
「変わった念能力だな」
「驚きもしねェのかい、つまらん」
拍子抜けしたように男は言う。けけけと下品に笑い、土足のままでカーペットを踏みしめて少年ににじり寄った。表情を崩すこともなく立ち上がり、男と距離を取る。「逃げるのか」安い挑発に乗るようなクラピカではない。きちんとした情報収集はなされていないと判断し、思いつく限りのマフィアの名を連ねあげた。が、男の反応は乏しい。
「何が目的だ」
直接に切り込むと、男はにやっと唇を吊り上げた。
「そう言ってくれた方が早ェ。最初にあんたが言った通りだ。ネオンとかいう娘はどこだ」
「……彼女はもう占えない。何ににも使えないぞ。それよりも貴様を雇ったのはマフィアか? それとも単独か」
「おれァ、人とつるむのもグタグタと話すのも嫌いでね!」
男が懐から取り出したものを見て、クラピカは扉に向けて走り出した。
次いで轟音が響き渡る。軽く転がりながら扉へ辿り着くが、すぐさま開けるような真似はしない。予想通りに、ノブ周辺にナイフが突き立った。
「この混乱の中で冷静だこと」
舐め回すような、かき乱すような。
そんな不快な声は背後から聞こえた。振り返らずに肘を突き出すが手応えはない。男は宙に浮き上がり、二つ目の手榴弾からピンを抜き取った。「馬鹿の一つ覚えというやつか」背を向けることはせず、すぅと眼が細められた。
「ハハハハハ! おれの念能力はすり抜けだけじゃねェ! 寧ろアッチがお遊びでコッチが本物だ、手榴弾を二酸化炭素から作り出す! 強力だぜェ? 凝なんかで――」
「誰が凝をすると言った」
冷ややかな声と同時に男のひょろ長い身体が吹き飛んだ。
「なぁ?!」右頬が突然に燃えたかと思うと彼は飛んだ。壁に叩き付けられる頃には、感じた熱は猛烈な痛みへと変化している。口の中では抜けた歯が数本、舌に乗っていた。
「は、はひ……を……」
「何をされたのかわからないのか? 殴ったのだよ。見えないようでは話にもならぬな。貴様と私では基礎のレベルからして違う」
緋の眼が男を見下ろす。二回目の爆発が起こり、少年の髪をばさばさとはためかせた。沸き立つ煙に視界を奪われたのはほんの一瞬だ。けれどクラピカはその一瞬を僅かながらに悔やんだ。
「待て!」
窓に駆け寄るも落ちていく男の背中が小さく見えるだけだった。
「くそ」携帯を引っ掴んで窓ガラスを蹴り付けた時に、扉がバンと音を立てて開かれた。
「クラピカ!」
チビ女を筆頭にして銃を構えた強面の男達が雪崩れ込んできた。
「ネオンを狙った賊だ。窓から逃げ出した」
再び蹴りを加えると、強化ガラスはがしゃああと大きな悲鳴をあげて飛び散った。
「私は追いかける。ネオンの護衛を頼む」言うが早い、クラピカは暗闇の中へと身を躍らせた。センリツの呼び声が風の唸り声に混じって聞こえた。
(まだそう遠くへは行っていない筈だ)
ベランダを足がかりにして五階分を一息で飛び降りる。
それを数回繰り返し、ついに少年はコンクリートに足裏を貼り付けた。夜着にスリッパなどという格好であるのは大いに不利だ。どうにかして別の衣類を――、せめて靴を。と、首をきょろりと見渡したところでクラピカは動きを止めた。図らずも捜し人を発見したのだ。ビル群の隙間に滑り込んでいく背中を迷うことなく追いかけた。
「おい、話が違うじゃねぇか」
男は細道を早足で歩きながら誰かへと電話をかけているようだ。
聞き取れるギリギリの位置にいると、ある程度の予想がついてきた。近頃いやに連絡を取ってくるネオンの元顧客……。マフィアとの繋がりはないと少年は覚えているが、金だけは無駄に有り余っているようで、ネオン宛てに亜人奇形児のホルマリン漬けまで贈りつけてきている。
(雇い主はやつという訳か)
携帯電話に向けて怒鳴り散らかされる内容は、予想を確信に変えるのに充分だ。だが、もう耳を傾けても、報酬がどうしたとか、約束が違うだとか、そんな話題しか聞こえてこない。有益な情報はないと判断し、オーラを研ぎ澄ました時だ。
「!」
ヴ、と胸ポケットに差し込んだ携帯が震えだした。
商談に夢中のようで相手は気付いていない。虫の羽音よりも静かに、答えた。
「……私だ」「……か……ょ」
「?」(センリツではないのか?)
眉を顰めている内に、相手の声がはっきりと聞こえ出した。
「…――カ! クラピカっ」
「?!!」
「あ、やっと通じた。あのねクラピカ! 聞いてよ、おれ達グリードアイランドを――」
爆発が起きたために、少年は続きを聞くことが出来なかった。
「てめぇ、ずっと尾けてきやがってたのか!」思わず気を乱してしまったのがいけなかった。男はクラピカの存在に気付き、腕にはいくつもの手榴弾を抱えている。
「――……」
クラピカは飛び退った後で携帯を落としたことに気付いた。
ぱらぱらと砂塵が落ちる空間を見つめたまま、複雑そうに眉を顰める。今の声は間違いなく、太陽のように笑う少年――。ゴン・フリークスだった。携帯は壊れてしまっただろうか、唐突に切れてしまって妙な心配を与えていないだろうか。
次々に浮かぶ思案に少年は苦笑を浮かべた。こんな時に何を考えているのか。
「てめェ! ざけるのもいい加減にしろ!!」
その笑いは男には嘲笑と映ったようだ。
いくつもの手榴弾が投げ付けられる。だが慌てることもなく少年は全てを避け、あるいは撥ね退けた。爆風だけが少年に届いて夜着や髪をはためかせる。
クラピカは大きく息を吸い込み、吐き出した。
「まだわからないのか」
手を伸ばす。目の前の敵に集中しろ、と、自らへと命令した。
「――貴様と私では、圧倒的な力差が存在するっ!」
投げ付けられた手榴弾を受け止め、素早く投げ返した。
「うがっ」男の鼻頭に当たって跳ね返る。と、その瞬間に爆発を起こして男は絶叫した。
「下らないな」容赦なく囁くクラピカであるが、爆風が晴れた刹那に頬を緊張させた。
見慣れた携帯が男の手の中にあるのだ。
「それは――!」
言い切る間もなく、男は、焼き爛れた鼻頭からベロリと皮膚を垂らしながらも焦げた機体を怒鳴った。
「おいコラ!! こんな強いやつがいるなんて――ぁ、ああ?! お前、違うっ。ゴン――」
「離せ。それは、私のものだ!!」緋の眼が闇夜に光り、少年は絶叫した。
瞬く間に懐に入り込み、喉元へ強烈な一撃を加えてやる。華奢な身体に秘められたパワーは本物だ、なす術もなく男は崩れ落ちた。
「返して貰う」空に放られた携帯をチャッチ。
クラピカは吐息と共に呼びかけた。
「……ゴン」
先程までの殺気じみた空気は微塵もない、甘さすら含んだ声音だ。センリツがいれば彼が笑っていると感じ取ったかも知れない。しかし常に望んだ結果が得られるわけではない。返ってきたのはクラピカの予想と期待を大いに裏切る、ドスの効いた淀み声だった。
「な、なんだァ?! 誰だてめぇ!」
携帯を持つ手が、一度だけ、ぶるりと震えた。
「ティバリ?! おい、ティバリじゃねーのか?!」「なんだ、どうしたゴーンジャス」「ボス! ティバリの野郎やられちまったようで――」無造作に通話を切った。
何も聞こえなくなってからどれほど経った頃だろう、複数の足音が路地に響き渡る。
「大丈夫だった?」
黒服の男を従えたセンリツが、肩を弾ませながら現れた。
彼女はすぐに顔を歪ませ、クラピカを覗き込む。
「何かあったの? 心拍数が……」
「疲れたようだ。後始末は任せても良いか?」
返事を待つ気にもなれず、呟きながら歩き出していた。
いいわよ、と戸惑った声色でセンリツが背中に叫ぶ。と、彼女は奇妙な声を出し、クラピカを呼び止めた。「これ、クラピカのじゃない?」差し出されたのは薄汚れた携帯である。
少年は掴んだままの携帯を虚ろな瞳で眺めた。
「あ、ごめんなさい。それがクラピカのね」
「いや。これは違うようだ。そっちが私ので合ってる」
力無く微笑み、携帯を受け取る。それからのことを少年はよく覚えていない。ホテルに戻ると別の部屋に案内された、汚れた夜着を着替える気にも、シャワーを浴び直す気にもならなかった、ベッドがとても魅惑的に見えた……。
ぽふりと倒れ込み、このまま朝までそうしていようと決めた時だ。
携帯が振動を始めた。
「…………」
すぐには動かず、振動が止まるのを待つも相手は随分と執念深いようだ。一向に鳴り止まないので、クラピカは観念してデスク上の携帯を手に取った。彼らしくもなく。疲れを隠し切れていなかった。
「私だ。すまないが今日はもう――」
「クラピカ!!」
「……――ゴン?」
疑り深く尋ねたが、その必要すらなかった。
「あー、やっと繋がったぁ。さっきはどうしたの? 突然切れちゃったけど」
酷く懐かしい声音だ。クラピカは喉を引き攣らせ、数回、声もなく喉をうならせた挙句に、歪にひしゃげた音色をひりだした。信じられない、とでも、いいたげに。
「本当に、本当にゴンなのか?」
「え? やだなぁ、なに? おれだけど……?」
「…………」
「何? 何かあったの? もしかしてさっき切れたのと何か関係が――。あ、今すごく忙しいとか?」
焦ったようにあれこれと訊いてくる。指先が奇妙な痙攣を起こし、少年はもどかしそうに首を振った。
「そんなことはない、なんでもないんだ。突然の電話じゃないか。どうかしたのか?」
「ああ、そうそう! 聞いてよクラピカ。おれ達、ついにグリードアイランドをクリアしたんだ!」
「ほう。それは凄いな。おめでとう!」
「へっへっへ〜。キルア達のおかげだけどね。もう現実世界に戻ってるけど、取り合えず報告しなきゃと思って電話かけたんだ。さっきレオリオにも電話したよ」
「レオリオは何と?」
「おめでとうってさ! ほんと、さすがジンの作ったゲームだけあって、すごく面白かったんだ。ゲームの中でヒソカに会ったりして大変といえば大変だったけど……」
「ヒソカと? 何もされなかったか?」
「うん。今回は一緒に戦ったんだよ。それにおれ師匠も見つけてさ。ビスケって言って――」
眼を閉じていると、ゴンの顔が浮かぶ。仰向けに寝転がりながら、クラピカはゴンの語る些細なエピソード一つ一つに耳を傾けた。
「まだ話せる? まだまだ報告したいこと、いっぱいあるんだ」
「ああ、まだまだOKだ。気の済むまで話してくれ」
微笑む彼をセンリツが見たとしたら、彼女の不安は一掃されたことだろう。ひとしきりゴンが話し終わったところで、少年は「今度、こちらからもかけていいか?」とだけ尋ねた。答えは期待した通りのものだった。
「もちろんだよ!!」
end.
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