世界に二人だけならば、こんな悲しみを知れないでいれた
俺は迷っていた。
握り締めたカードキーを、エレベーターのカードスラッシュに差し込むべきかどうかを。
先程まで、名前の知らない同級生が一緒に乗り合わせていた時には、こいつがいなくなったら差し込もうと考えていた。しかし、いざ一人になると、エレベーターの右脇に設置された白い箱に恐怖を感じた。短く切り入った溝から、黒く染まった予感が溢れているようだ。
『やめて……っ、やめてください』
憧れの人と最後に会ったのは、一週間前だ。
彼が自室としているマンションの最上階で、ガラスに縋り付きながら、俺はあられもない嬌声を叫び続けた。後腔には無機質な棒が突き立てられた。教官が訓練兵を律する時に使う60センチばかりの棍棒である。内壁を抉られるたびに、目を剥いてガラスに爪を立てた。
『お前は訓練兵だろ? クラウド・ストライフ。俺は、お前の上官として命令違反の罰を与えているだけだ。拒む権利など、ないのだぞ』
『ヒッ。い、いやっ。こんなの……いやです!』
『言葉を理解していないようだな』
つまらなさそうに吐き捨て、棍棒を捻りあげる。
甲高い悲鳴が喉で爆ぜた。
「…………っ」
悪寒が全身をなで、反射的に両腕で体を抱きしめた。
セフィロスの執務室に行けという命令は、寮の掲示板に貼られていた。俺はそれに気づいていたが、気づかなかったふりをした。理由は単純明快だと思う。
『なぜ、こなかった?』
命令違反の翌日に、俺は、神羅ビルの入り口でセフィロスと鉢合わせた。
どうも、彼はそこで待っていたらしい。この日に、俺が郵便配達の社内アルバイトを行っていることを知っていたのだろう。話したことはなかったし、今までに待ち伏せされたこともなかったので、俺は驚いた。
セフィロスの開口一番の言葉は、『なぜ、こなかった?』である。
黙って俯いた態度は、たいそうお気に召さなかったみたいだった。
二の腕を鷲掴みにされ、引き摺るように、セフィロスの腰を支えていた乗用車に放り込まれた。
後部座席に横倒しになり、目をしばたかせている間に、窓から見える景色がずれ始めた。文句を言うことはできなかった。運転席に座る銀髪の男は、そうとうに怒っていたからだ。マンションの自室に辿り付くなり、彼は、俺の右頬をはたいた。
『命令違反の理由を述べろ』
冷たい床に尻をつきながら、俺は、頬の熱さに意識を遠のけそうだった。
『り、りゆうは……』舌がうまく回らない。
これは熱痛のせいだけじゃ、ない。
セフィロスの全身から立ち昇る怒りという名の空気が、身体を雁字搦めに縛り付けていた。がくがくと膝が揺れる。
『……言いたくありません……』
碧の目が、スゥっと細まった……。
俺の扱いは、普段からやさしいものではなかったけれど、その日は特に酷かった。
拒絶の言葉を口にすればするほど、激しさに拍車がかかってもいたようだ。うっすら理解しながらも、泣き叫ぶのはやめられなかった。猛然たる恐怖が、全身の行き渡っていた。
『許して……。ごめん、なさい』
しまいには懇願しだす俺を、蔑みを込めた瞳で見下ろし、しかしセフィロスは責めを緩めなかった。やがて、喉が枯れて腕をあげる体力すらなくなった。セフィロスは、最後に、中に棍棒を押し込めた。そして、そのまま風呂場に俺を放り出した。どれくらい放置されたのだろうか。意識を失っていたので、正確なことはわからない。
けれどシャワーを頭に浴びせられ、無理やりに追い出された時には、窓から朝焼けが見えた。
マンションの扉を閉める寸前に、冷ややかな囁きが聞こえた。
『次をやってみろ。裸のまま、放り出すぞ』
振り仰ぐ暇もなく、荒々しく扉が閉ざされる。
取り残され、俺の膝はがくがくと震えた。
本能的な恐怖と、あの人に嫌われたという現実と、望んでいるのはこんなものではないという内の声。
セフィロス、違うんです。心中で、繰り返しそんな言葉が紡がれる。何が違うのかは、自分でもよくわからなかった。叩かれて赤く腫れた頬の痛みが、いまさらになって思い起こされる。それよりも痛い目には、散々、あわされたのに。何故だかそれが一番痛い。
『頭に、近いところだから……かなぁ』
滲んだ涙を意識しながら、俺は、気を紛らわせるように呟いた。
……ピッ。電子音が鳴り響くと、カードボックスの中央の電子盤に、右隣につけられた階数ボタンにはない数字が表示される。
そこは関係者だけが入れるセフィロスの自室だった。
神羅社員用の建設されたこのマンションは、四十階建てになっており、十階より上は、要人用の部屋になっている。最上階を宛がわれた英雄のもとへは、専用のカードがないとエレベーターですら運んでくれないのだ。速やかに上昇するエレベーターに反するように、体があがるのを拒む。
俺の心も同じだった。セフィロスの誘いは、もう、ないと思ったのに。
なぜ、以前の伝令を繰り返すのだろう。俺の社内アルバイトのことは、みんな知っているので、セフィロスからの呼び出しがあっても特に驚かれることはない。羨望はあるが、俺は社長秘書にだって郵便物を届けているのだ。半端じゃない仕事量と、アルバイト査定には容姿も少なからず影響されることから、俺は長らくアルバイトを続けている。
セフィロスと今のような関係になったのは、このアルバイトがそもそもの原因だった。
最初はザックスと親しくなり、その紹介でセフィロスと出会い、彼にも郵便を届けるようになった。
気がたっている時に、やたらと上機嫌に郵便を届けたのがいけなかったらしい。俺は、彼の執務室で、机に押し付けられながら涙を流した。無理に押し広げられたそこから、鮮血が流れていた。俺の憧れの英雄が、何を考えたのかはよくわからない。けれど、それから、たびたび犯されるようになった。
「……セフィロス……」
四十階の表示が、緑から黄色へと変化した。
しゃ、と、勢いよくエレベーターの扉が開く。長い通路の真中にドアがあった。
セラミック気質の内壁と扉が、機械的な印象を与えてくる。一番奥の突き当たりに窓が在る。
そこから見える外の景色が、俺のお気に入りだった。エレベーターから降り、辺りを見回す。人の気配はない。当たり前だ。セフィロスがいうには、自分の部屋のカードを与えたのは、俺一人だけらしい。
『今までの相手は、自分の家を持っていたからな』
嬉しいと感じた直後に、セフィロスは、どうでもよさそうにそう言った。
それは真実だろう。俺は寮の共同部屋に住んでおり、コトに及ぶことなど到底ムリなのである。
かといって、外に泊まるというのも面倒なのだろう。短い付き合いではあるが、そういうことを面倒がると、わかってきた。これは喜ばしいこと……で、ある。
扉に近寄る気になれなくて、窓に向かった。
ミッドガルの夜景が眼下に広がっている。行き交う車の波は、まるで、一つ一つが宝石箱を走るルビーやサファイアのようだった。半ば放心しながら見下ろした。ずいぶんと、長いことそうした。
小さくため息をついて振り返り――全身が、硬直した。
一番に目に入ったのは、逞しい胸元である。
張りのある肌を、筋肉が盛り上げて美しい曲線を作り上げている。おそるおそる、上を見上げた。すぐ近くだったので、首を七十度ほどあげるはめになった。セフィロスは、眉根を寄せていた。
「セ、セフィロス……さん」
驚きの余り、口がぱくぱくと上下する。
何もいえないでいると、彼のほうから口を割った。
「変わらず、いい度胸をしているな。エレベーターが四十階につけば、音で分かる。訪れたのが誰なのかも、すぐにわかる」
これは、まずい。直感的に感じた。声は静かだが、その抑揚のなさが、底でとぐろを巻いている憤怒を表している。
「変なつもりじゃ……」
「とにかく、入れ。それからだ」
腕をつかまれ、引き摺られる。泣きたくなった。
違う、違う。この前と同じ言葉が身体中、指先までも駆け抜ける。
――あなたを愛してしまったから、あなたから逃げようとしているのに――
心臓が激しく脈打つ。いやな汗が、背筋を伝った。部屋に押し込まれるなり、扉に背中を叩きつけられる。息をつまらせていると、腹立たしげな怒鳴り声が聞こえた。
「きさまなど取るに足らん存在だ。だが、もう俺のモノだ。勝手に逃げることなど許さない」
「せ、せふぃろす」
両腕で襟首を持ち上げられ、首が絞まる。
違うのに、と心中で叫んだ。逃げていない。貴方を愛してる!!
でも貴方は、俺なんかの愛は受け入れないだろ?
それだったら、始めから、そんな思いには蓋をしてしまったほうがいい。
「セフィロス」
見上げた天井は、白かった。
この世界に、俺と彼の二人だけだったらよかった。
そうしたら、こんなに悩むこともなく、一緒にいることができただろうに。
――腕一本で俺を吊り下げるセフィロスが、なぜだか、泣いているように見えた。
end.
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